現代の僧医をめざして soui

僧医として出発のときに

 平成12年の春、帝京大学医学部に入学した私は6年後の今春無事に卒業し、医師国家試験にも合格することができた。今は研修医の身分となったが、この6年間を振り返り、報告をかねていささかの所感を綴ってみたいと思う。

 なぜ禅僧が医師をめざさなければならないのか、その理由を問われることが今もって多い。そのことについては既に拙著『禅僧が医師をめざす理由』(2001年、春秋社刊)の中で明らかにしたので、ここであらためて述べることは差し控えたい。しかし四半世紀以上にわたって僧侶としての道を歩んできた者が、40代半ばにして方向転換し、一医学生として医学を学ぶことは確かに容易なことではなかった。

 入学時は孤立無援でのスタートと言われた。私の行動に対して宗門内では賛否両論が沸騰したが、どちらかといえば批判的な見方のほうが多かったのではないだろうか。好奇と冷淡のまなざしが注がれ、また多くの人々が沈黙を守った。私自身、自分の選んだ道に対してゆるぎない確信はあったが、やりあげる保障はどこにもなかった。宗門内で個人的にエールを送ってくださる僧侶の方々も少なくはなかったが、そこはやはり伝統社会のこと。常にいろいろな制約がつきまとう。よって表立って私を支援しようという人はなかなか現れなかった。ただ宗門とは少し距離を置いた一般社会の住人である何人かの方々が、その後も一貫して強力に支援してくださった。今日の日にいたることができたのもひとえにそういった外護の賜物であることを感謝をもってここに記しておきたい。

 宗門内での反応とはうらはらに、一般社会では公正な評価をしていただいたと思う。テレビやラジオ、新聞雑誌など、さまざまなメディアからの取材に応じることで、私はみずからの理念をじゅうぶんに訴えることができた。とくに『メディカル朝日』でのインタビュー掲載は医学界に賛同者を得るきっかけとなった。

 また医学部一年生の終わり頃、日本テレビの「宗教の時間」(残念ながらこの番組は今はもうなくなってしまった)に取り上げていただき、取材のカメラが学内に入った。そのとき初めて教官や学生たちは坊主頭の変なおじさんの素性を知ったようだ。以降、私は真に学友たちの輪の中で安住することができるようになったと思う。

 先に述べた拙著を上梓したのはそれから間もない頃であった。何よりも私の行動についての説明責任を果たさなければならないと思ったことと、一般社会により広く正確にみずからの理念を訴える必要性を感じていたからだ。当初は第3章の「僧衣から白衣へ」に相当する部分のみを意図していた私であったが、ひょんなことに自分の生い立ちから綴ることになってしまった。まあ恥はかき捨てと割り切って出版したが、読者からの理解も得られ、結果としてそれでよかったと思っている。多くの人々がこの本をとおして私の活動を知っていただき、また結縁のきっかけとしていただいている。その意味でも、私にとってはなくてはならない大切な著書である。

 医学部での勉学の厳しさには筆舌に尽くしがたいものがあるが、この6年間、もうやめたいと思ったことは今までただの一度もなかった。この歳と境遇で、医学を学ぶことのできる幸せを常にかみしめていたからだ。医学生として何が一番苦労かとよく尋ねられる。たいていの人は記憶力の低下という答えを予想しているらしいが、そうではない。確かに習得しなければならない医学知識は気が遠くなるほど膨大だが、幸い記憶力に困難や限界を感じたことは今のところない。それよりもいろいろな情報を統合して瞬時に判断する力が若い頃と比べて衰えていると思う。このことは今後やはり臨床での訓練が必要になるだろう。

 大学ではよき先生方の指導を受けることができたし、またよき学友にも恵まれた。私の立場をよく理解していただき、絶妙な距離で接していただいた諸先生方からは、臨床的なセンスを教えられたように思う。私立大学の医学生は開業医の子弟が多く生活も派手との先入観があるようだが、私の学友のほとんどはごくふつうの学生さんたちである。良家の子女ながら親の学費負担を思い、切り詰めた生活を心がけている人もけっこういるなど、奢侈で奔放な学生は一人として目にすることはなかった。何も言わなくても試験情報を回してくれたり過去問を届けてくれるなど、とても親切にしていただいた。六年間を乗り切るにあたって、やはり学友どうしの助け合いの力は大きかったと思う。私にとってこのような最適の学びの場を与えていただいたことに感謝の念は尽きないのである。

 この6年間の最大の苦労の一つははやはり経済的な問題であったと思う。資産やまとまった貯蓄があるわけでもない、また宗門から追放同然で飛び出してきた無一物の身の上である。このような状況で、生活と学業の両立など誰が考えてもできようはずがないのだが、仏天のご加護であろう、窮地に至るたびにどこからともなく有縁無縁の多くの方々から援助の手を差し伸べていただいた。ほんとうにこれは不可思議としかいいようがない。

 私自身の身勝手な本音としては、誰に知られなくてもよい、ひっそりと黙々と勉学に打ち込みたかった。存在を忘れ去られたほうがかえって集中はしやすい。しかし経済力を持たない身ではそれではやっていけない。いやおうなく情報発信しながら世間からの支援を仰がなければならない。またそれが法施財施という僧としての本来のありようなのだと気づかされた。

 そういった実情の中で、ありがたいことにしだいに講演にもよく招かれるようになった。医師会や看護学校などの医療関係をはじめ企業各種団体、仏教会やボランティア団体など、多い年には月に3回の頻度で出講した。北海道や九州でも、飛行機で日帰りできる場所なら招きに応じ、生老病死の中のいのちについて率直に語らせていただいた。ついには医科大学や医学部で同じ学生さんたちに講義することもあったし、医学会の総会で演壇に立ったこともある。講演には僧侶として常に法衣を纏って赴いた。

 こうして世論は宗門外から少しずつ動いていった。公正な目で判断できる一般社会の人々から期待と激励の声が日増しに大きくなり、それが逆に宗門の流れを変えていった。宗教界でも仏教文化および社会派の重鎮として知られる相国寺の有馬頼底管長がいちはやく支援の姿勢を公に打ち出してくださった。発起人となって「支援する会」が結成され、呼びかけに応じた各派高僧や茶道家元、画家、陶芸家などから書や作品を提供していただき、京都と東京で墨蹟展を開催。多くの方々から浄財を寄せていただいた。

 また各宗の青年僧の会からも講演の依頼とともに支援の声明が届けられ、大いに勇気づけられる思いであった。これ以外にも表にこそ出ないが、個人的に継続して支えてくださった何人かの宗門関係者、黙って匿名でご喜捨を続けてくださった一般在家の方々の存在も決して忘れることはできない。

 多くの多くの皆様方に支えながら、必死で勉学に打ち込む6年間があっというまに過ぎていった。そしてついに念願かなって医師となった今、無量無辺のご縁にしみじみ感謝しながら、なおかつ前途の遥かにして容易ならざることにあらためて気を引き締めなおしているところである。

 大願を成就したのではなく、やっとその端緒に就くことができたのである。まずは臨床医としての基本的なトレーニングを徹底して受けなければならない。言わば再行脚の僧として道場に入門しなおすようなものである。何科に進むのかとよく尋ねられるが、結論を急ぐことはない。いちど心を白紙に戻して、臨床研修の場でじっくりと見定めていきたいと思う。そのための2年間でもあるのだろう。いずれにしてもこれからのプロセスが、私のめざす「僧医」の基礎をなすことを思えば、油断なく至心に精進を重ねてゆきたいと心に誓っている。

月刊「春秋」11月号所収

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