現代の僧医をめざして soui

「僧医」という生き方

 ノンフィクション作家・柳田邦男氏が書評のかたちで僧医をめざす生き方について書いていただいています。謝意を表明して茲に全文を引用させていただきます。

言葉の力、生きる力

 四十歳代の熟年期に入った一人の禅僧が、突如、意を決して宗門内の地位を捨て、一医学生になった。この禅僧の医学への“入門”には、格別に瞠目すべき意味がある。

 臨済宗の管長(最高指導者)まで務めた禅僧・対本宗訓師がその人だ。いまだ医学部二年生で(*平成18年3月医学部卒業)人生の再出発を始めたばかりなのだが、師は自分がめざす道標への思いが熱く、あたかも選手宣誓のごとくに一念発起の書として『禅僧が医師をめざす理由』(春秋社、2001年)を書いた。

 人間は身体と心の統合体だ。だが、現代の医学・医療は科学の方法論そのままに、人間のいのちの営みを見る目を、モノとして分析できる臓器、組織、細胞、遺伝子といった側面にばかり向けるようになり、精神生活、感情、宗教性といった側面には向けなくなった。痛み、苦しみ、不安にさいなまれる患者にとっては、医師に全幅の信頼感を持てなくなる。とくに治療法のなくなった末期がんの患者にとっては、これは重大な問題となる。

 逆に、宗教者は心を見るけれど、身体を見る知識がない。僧侶の役割は生老病死の現場にあり、とりわけ死を前に苦しんでいる生きた人に安心を与えることこそ重要なはずだ。だが、対本師は、自分でその役割を果たそうとしても思うように出来ないことに気づいた。その壁は何かと考えると、医学知識の欠如だった。

 〈身体の病気を診る医師と心や魂のケアをする僧侶、これら二つの立場が一人の人物の中に調和したかたちで臨床に取り組むことができれば、宗教と医療の新たな可能性が開けるのではないか〉
 ——対本師を医学生へと衝き動かした思想はそこにあった。

 対本師は自らの行動理念として、「僧医」という言葉を創った。現代医学を修めた僧侶の意だ。京都大学出身の哲学徒でもある師の、現実社会での宗教と医学のアウフヘーベン(止揚)をはかろうとする生き方は、十年後、二十年後の日本の精神文化に何か大きなものをもたらすにちがいない。その予兆を、この本から感じる。

『言葉の力、生きる力』(柳田邦男著、新潮社、2002年)所収、「医療を読み解く言葉」より

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